モロッコ雑感

モロッコで 出会ったのは 断食月(ラマダン)、断食月明けの祭り(イード・ル・フィトル)であった。断食をする目的は、食べることの出来ない者の、苦しみを知るために、餓えを体験することによって、食べ物とそれを与えてくれた神への感謝だど言う。

日の出から日没まで水を含めて、いっさいの飲み物、食べ物を口にしない。タバコも吸わない。日没後から日の出前まではこの行は解除される。

政府機関も、会社、銀行も「断食体制」をしいて応援する。

断食月明けの祭りは、日本のお正月に良く似た雰囲気を持ち、ザカートをすませ特別礼拝をすませ、新年を祝う。勿論子供達も新しい洋服を着せて貰い、お年玉を貰う。

断食は仏教でもキリスト教でもユダヤ教でも、なされるべきものとされているが、ごく普通の一般の人々が嬉々とした感じで、行っているのはイスラム世界だけである。断食をすると言う宗教的伝統行事が、千年以上も続いてきた精神文化を守ることに、仕事よりも価値をおいている。

また村ごと全部が白装束の女性ならまだしも、いたるところで黒装束の女性に出会うとぎょっとする。ムスリム社会では「女の世界」と「男の世界」がはっきり区別されているとは話しには聞いていたが、現実に垣間見ると文化の違いをつくづく思い知らされる。

かれらの生活を見ていると私たちの生き方、時間の使い方が違う。かれらの生活は、3つのワクト(とき・時間)に分けられる。 「ショグル」「ラアブ」「ラーハ」「ショグル」のワクトは仕事をする時間のこと。生活していくために、必要な時間ではあるが、重視しない。過酷な自然環境、遊牧的生活環境も加味して、労働そのものに価値をおいて暮らせば、人々はどうなるかを悟っているのだろうか。

日本人を「エコノミック・アニマル」と最初に表現したムスリムが、重視しているのは仕事や遊びでもない「ラーハ」である。日本語では言い表せない言葉で、しいていえば「ゆとり」「くつろぎ」「休息」「安息」などを合わせたようなものか!

つまり労働したから休む、疲れたから休息する、といった受動的なニュアンスはラーハにはない。むしろラーハの時間をもつために、労働をするといった能動的で積極的な意義をもつ。ゆとりの時間を沢山持つことが人間らしい、いい生き方なのである。どういうものが範疇にはいるのか、順不同にいうと、家族と共に過ごすこと、人を訪問すること、友人とおしゃべりすること、神に祈ること、眠ること、旅をすること、勉強すること、知識をうること、詩をうたいあげること、瞑想すること、ぼんやりすること、ねころがることなどである。ごろんとすることも、勉強することも同じ価値をもっている。

「ショグル」にあたるのか、「ラアブ」になるのか、「ラーハ」に入るのか、彼ら自身区別出来ないものもある。しかもなるべく区別したくないとも考えているようである。

できれば生活全体、なにもかもラーハであることを望む彼らは「ビジネスライク」をきらう。物の売り買いも出来ればラーハ的に進めて楽しむのが好きだ。定価もなければ一物一価原則もない。あるのは「いい値」だけ。それは買う値段ではない。かけあいは、そのいい値の一割からはじめる。体裁にこだわらず、値切るうしろめたさや、恥ずかしさなどみじんも感じる必要もない。このかけあいには定石はない。機に臨み、変に応じて機知を駆使しなければならない。そこが醍醐味でもある。近代的なスーパーマーケットではラーハがない。売り買いだけのショピングはラーハではなく、仕事になりさがっていると嘆く人も多い。

らくだに乗って、サハラの日の出をみたこと。あの地球との一体化の一瞬は、かけがいの無いモロッコの思い出となりました。長靴は、あのさらさらしたオレンジ色の細かい粒子の砂漠にはぴったりでした。

気候についても認識不足で、キリマンジャロの雪は聞いたことがあっても、アトラスの雪があのように深く、しかもその水が、生活を支えているのは、過酷な自然条件に対しての神の恵みとしか考えられない。気温差の激しい夜は、パジャマだけのベットでは寒くて目覚めてしまうことも驚きでした。

出会いの土地モロッコは、独自性に発展をも取り込み、信仰が私生活、公共の場においてもさまざまな形で存在している。この地球には実に多種多様な人々が、実に多種多様な生き方をしている。相互にあたりまえと思い込んでいることが、お互いに相手に異様にうつったり、納得できなかったりする。相手を、他を認め、己を主張し、そして共存する。

短い日数でうわすべりかも知れないが、こんな思いをもちました。

 

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