テヘラン
イラン


アーザーディ・タワー

 テヘランは4000m級の峰が連なるアルボルズ山脈の麓に広がるイラン・イスラム共和国の首都。人口は約650万人。イラン第1の都市として、行政、経済の中心地。世界で指折りの高地にある都市のひとつ。北は標高1700mシャミラン(涼しい場所)と呼び、南は約1100mタヘラン(熱い場所)と呼び、5度の温度差がある。

 成田空港からメヘラバード空港まで飛行時間約11時間。時差約マイナス4時間30分。

 空路、陸路ともにテヘランへ向かう時に最初に視界に飛び込んでくるのが、アーザーディー・タワーだ。この逆V字の塔は、1971年ペルシャ建国2,500年を記念して建てられた。塔の高さは45m、内部は歴史博物館、エレベーターで頂上まで上がれば、眼下の市街や遠くアルボルズの山並みを楽しめる。

 イラン革命

  1979年2月、パフラヴィー朝の国王独裁を打倒し、ホメイニ指導のもとにイスラム政体を樹立した革命。

 イランが米ソ冷戦の焦点となって以来、国王モハンマド・レザー・パフラヴィーは、アメリカに支えられ、国内の民主主義を抑制してきた。農地改革や国営工場の民間払い下げ文盲撲滅などを強行に進めた(白色革命)ことに国民戦線と宗教指導者が反対し、ホメイニも逮捕、追放された。

 1971年から、反政府ゲリラの活動が始まり、1974年からの石油収入増加による経済ブームの国家独占が、国民の経済不満を招いた。

 1978年にはコムで、宗教学生デモに治安警察が襲いかかり、犠牲者を出したことが全国に反国王デモを波及させた。

 1979年に国王は亡命し代わりにホメイニ師が帰国、革命政府が全権を掌握した。

 


イランの教育制度 

  5歳になると、小学校入学に備えて、幼稚園に1年間通う。多民族国家なので、地方によっては、ペルシャ語と、それぞれの民族語の両方を話す子供もいる。小学校では、ペルシャ語で授業が行われるので、幼稚園のときに、しっかり勉強する。

 ダスベターン(小学校)5年  ラーフナマーイー(中学校)3年授業料は無料。今では殆どの子供が小学校に入学する。

 ダビーレスタン(高校)4年、ダーネシュガー(大学)4年間。

 小学校から大学まで、それぞれ卒業試験に合格しないと、進学できない。特に大学に入学するには、全国統一試験があり、成績順に希望の大学に入学できる。しかし大学は、小学校入学時の生徒のわずか、2%しか進学できない、狭き門。

 大学に進学しなかった男子は、18歳になると、2年間の兵役が義務付けられている。大学生は、卒業と同時に兵役に着く。今はお金を払うと兵役が免除される。

 宗教とコーランの授業は、小学校からあり、イスラム教の戒律により、小学校から高校まで男女は別学で女子の学校の教職に、男性はつけない。これはイスラム革命後に決められた。

 全ての学校は、9月に始まり、6月に終わる。

 イランの子供達は、もうひとつ、学校に通う。イランの学校の特徴は、音楽や絵など、芸術に重点を置かないので、それらを学ぶ「青年と子供の精神教育センター」という、町の地区ごとにある組織に属す。そして学校が休みの木曜日の午後と金曜日に、このクラスに通う。ここでは、一人一人の個性を引き出すことに、力を注いでいる。

 外国人の私達は、町のどこででも、チャドルの学生に取り囲まれる。そして彼女らの知ってる限りの英語の質問攻めと、シャッター攻撃でもみくちゃにされてしまう。

 

 


宝石博物館

 イラン・メッリー銀行の地下金庫にある博物館。革命前に王家が所有していた、宝石を、陸地はダイヤとルビー、海をエメラルドで色分けして、5万1千個の宝石をちりばめた地球儀など、 世界でも最大級のコレクションが展示されている。

 その他ダリア・イ・ヌル(光の海)と名付けられた182カラットのダイヤがある。その姉妹石コー・イ・ヌルは、カットされて102カラットとなり、英国王室の王冠を飾っている。

 一般的な展示ケースの内外には、「手を触れぬよう」にとしつこく,見苦しいほどに張り紙があるが、ここはそれが一切なく、すっきりしていて感心した。展示ケースの何処かに、手が触れたりすると、けたたましく室内に警報が鳴り響く仕組み。

 サーダバード宮殿は広大な敷地に、かってのパフラヴィー王家の夏の離宮がある。現在その建物のいくつかが博物館として公開されている。

 メインの宮殿博物館(以前はシャーの宮殿)の2階食堂には20畳を超える絨毯が、1階宴会場には37畳余りのイラン最大の絨毯(復刻)などが敷いてある。

 メッラト宮殿は2代目シャーの王妃が住んだ宮殿。庭園内で最大の建物であり、「白い宮殿」の愛称で親しまれている。

 ネザーミー博物館は、軍事博物館として武器のコレクションが展示されている。展示物には、イラクのサッダーム・フセイン大統領から贈られたという品も含まれており、現代中東史の一端を見るようで興味深い。

 ガージャール朝以来、テヘランの経済中枢としての役割を果たしてきたバザールは、沢山の出入口と、入り組んだ通路、そして扱う商品によって、出店場所が大体決まっている、中近東独特のスタイルだ。

 バザールには、いくつもの寺院や銀行、消防署などがあり、この一帯は、先の喧騒が嘘のように静まりかえっている。

 

 
 

   
テヘラン

 カスピ海のキャビアは世界一と言われているが、メフラバードの国際空港内でしか、安全なものは買えない。無い時もあるので、運が良ければ、上ランクのものが100gUS$73で買える。カードはマスターのみ。

 国内空港では、写真機などの電池は取り出して、別々にしてからチェックを受ける。えー、これってなんなの?

 荷物チェックは、思いつきのようにスーツケースを開けられることがあるが、ここでは特に男女の区別は見られない。男女別々の入り口を通ってボデイチェックを受ける。

 長い上着とスカーフは、入国時より着用が義務づけられるので、手荷物の中に入れておきたい。その他の携帯必需品は、帽子、サングラス、日焼け止め、ティッシュペーパー、雨具、虫除けスプレー、日本食等。

 水はホテルのウエルカムやレストラン、バスの中でも充分に頂戴して、一度も買いませんでした。

 ラレホテルに忘れものをした。そしてホテル側の対応は?

 夜中に到着、明朝あわただしく出発して、シラーズへ向かうバスの中で、忘れ物に気づいた。最終にはラレホテルに戻るので、アダプターを回収して欲しい旨を連絡した。ホテルを立ってから1時間もしない内のことだ。

 1週間して、再びラレホテルに夕方到着しました。添乗員さんを通してラレホテルの言い分は、「今、あの部屋には誰も宿泊していないが、担当するメイドが出勤して来る明朝7時にフロントまて来て欲しい」とのこと。

 翌朝添乗員さんとフロント、地下の忘れもの保管室へいく。ホテル側言い分「1週間中には多くの人が、宿泊するので、どうにもならない」

 「昨夜の話のメイドさんに見てもらうのは、どうなったの?」「宿泊客がいるので、起こせないから駄目だ。」

「じゃ、フロントから、忘れものした前の客が行くからよろしくと電話を入れてください。」

「それはプライベートの侵害だから出来ない」

「忘れ物は私の過失、紛失してもやむを得ない。1週間前に部屋を確認したが、無かったという返答であれば、私も納得したでしょう」

「日本へ帰国してホテルの対応についてイラン大使館、観光局に電話するので、名刺を下さい。」名刺をもらう。フロントもこれか、あれかと他のアダプターを持ってきた。

 そして1週間前の部屋のある階にあがって行くと、メイドさんが、宿泊者の許可も得ず、鍵で部屋を開けてくれた。やはりコンセントにアダプターは差込まれてなかった。自力で確認できたので、納得した。もう9時半を過ぎていました。皆さんはテヘランでは、上位にランクされているホテルの対応を、如何思われますか!

 

 

 

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