ブルガリア・ルーマニア資料室
ラテンとスラブの国の歴史
同じバルカン半島の南北隣合せに位置しながら、民族的性格は
対極にある。2カ国の生い立ちからその歴史をたどりたい。
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ブルガリア |
ルーマニア |
紀元前19〜8世紀頃 |
インド・ヨーロッパ語族のトラキ人 の集落が生まれた。
農耕、牧畜、金銀細工で国家形成した。
トラキア人の黄金細工の水準は非常に高い。 |
紀元前8世紀頃インド・ヨーロッパ語俗のダキア人が住み着いた。
ローマ帝国の属国となり、混血化が進み、ラテンの国となる。
3世紀、西ゴート族により滅亡する。
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7世紀
11世紀 |
681年 ブルガール人による 第一次ブルガリア帝国誕生
キリスト教が国教となり、教典を広める為キリル文字の原形が考案さた。
メオン1世(在位893〜927)の時最盛期にはバルカン半島の大部分を支配するが1018年、300年の歴史をとじた。
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2つの独立国家が誕生した。 1.現在のワラキア地方に1330年ワラキア公国 2.現在のモルドヴァ、ブコヴィナ地方にモルドヴァ公国 |
12世紀
13世紀
18世紀 |
1187年アッセン・ペタル兄弟が 第二次ブルガリア帝国を建国。
イヴァン・アセン2世(在位1218〜1241)の時代には文化も花開く。
世界遺産のボヤナ教会のフレスコ画や、リラの僧院のフレリョの塔などの傑作が生まれた。
1396年、オスマン・トルコに征服され、以後500年間支配される。
この時代はブルガリアにとって大きなくびきとなり、先進ヨーロッパに数世紀の遅れをとる結果となった。 |
オスマン・トルコをを撃退した ワラキア公国のヴラド・ツェペシュ(在位1431〜76)串刺し公として今も語り継がれている人物だ。
モルドヴァ公国のシュテファン大公(在位1457〜1504)オスマン・トルコを退け、安定した治世をした。
世界遺産が含まれるブコヴィナ地方の五つの修道院も、この時代に造られた。
最終的にオスマン・トルコに支配される。
18世紀一時的にロシア支配を受ける。クリミア戦争後、2カ国は統一されルーマニア公国が誕生した。
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19世紀 |
ベルリン会議(1878)で、ロシアの 南下を恐れたヨーロッパ列強が、 500年ぶりにオスマン・トルコ支配から開放された、ブルガリアの領土を3分割した。 |
1877年露土戦争にロシアの同盟国として勝利に貢献し、完全独立した。 |
20世紀 |
第一次バルカン戦争(1912)はオスマン・トルコ対ブルガリア・ギリシャ・セルビア・モンテネグロ同盟、同盟が勝利する。
第二次バルカン戦争はブルガリア側は敗北して領土を大きく失った。
第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリア=ハンガリーと同盟。敗北して国土は更に縮小。
第二次世界大戦の終局間際には、ドイツと手を切り、アメリカ・イギリス・ソ連との休戦協定を結んだ。
最終的にはソ連側につかざるを得なくなり、社会主義に傾倒していく要因となった。
戦後は、共産党が第一党となり、社会主義国家が生まれた。
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反ブルガリア側で、南ドブロジャ地方をブルガリアから獲得する。
イギリス・フランス・ロシアと同盟。勝利して領土を拡大。 ドイツに組していたルーマニアもついにドイツに宣戦布告した。
ここからはブルガリアとはじめて同じ道をたどり、社会主義国家へと進んで行くことになる。 |
東欧革命後 |
ソ連のペレストロイカに端を発した東欧革命の波は、両国にも押し寄せた。
東欧諸国の中で最も親ソ路線をとった共産党書記長ジフコフが辞任。35年の共産主義体制は幕を閉じた。
国名もブルガリア共和国とし、民主化の道を歩み始めた。
民主政権が発足すると同時に、資本主義経済に移行したブリガリアの発展を楽しみに、これからも注目していきたい。
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ティミショアラから始まった、ハンガリー人牧師強制退去への抗議運動に対する治安部隊の容赦ない鎮圧は瞬く間に全国規模の反チャウシェスクの動きを呼んだ。
大統領夫妻の処刑という衝撃的結末でおわる。
非共産党の政権誕生には96年まで待たなければならなかった。
そして民主政権の発足、資本主義経済への移行とここ、ラテンの国、ルーマニアも隣国と歩みを揃えた。 |