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敦煌市内から車で約30分。 遠路はるばる莫高窟に来た時、まず目に飛び込んでくるのが、この威風堂々とした牌坊である。 50年代のはじめ、敦煌県城は道路の拡張にあたり、取り壊わされることになった、大通りに立つ貞節牌坊を、莫高窟の正面入り口に移築した。 「常書鴻がいなければ、今日の莫高窟はなかった。」 殆どの者が同じことをいう。 解放前夜、河西回廊一帯は、大混乱に陥っていた。 敗走してきた国民党中央軍と馬鴻逵・馬歩芳両軍、国民党のスパイやアメリカのスパイ、それに地方官吏たちは、上も下も足しげく莫高窟を訪れた。 大陸から逃げ出す前に、ひとかせぎしようと、たくらんだのだ。 . |
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もし常書鴻が彼の弟子たちと手をたずさえ、難攻不落の壁を作らなければ、敦煌の貴重な文化財は、このとき、根こそぎ略奪されていただろう。彼は一家離れ離れの苦しみをしのび、酷暑と酷寒の苦しみに耐え、食べるものにもことかきながら、敦煌を守り抜いたのだ。 解放後まもないころには、盗賊団が新彊から敦煌近郊まで荒らしまわり、莫高窟にも略奪の手を伸ばそうとした。常書鴻たちは銃をとって陣をかまえ、盗賊団を撃退した。洞窟での地下道戦も準備していたという。 文化大革命では血気にはやる紅衛兵に両肩を押さえつけられ、両手を後ろに高く持ち上げられ、ジェット機のように高くつるし上げられた。それから小石を敷いた上にひざまずかされ、自分の「大罪」を自白するよう命令された。 苦しみに耐えながら、常書鴻は自分がフランスから、この祖国の荒れ野にどのようにたどりついたのか。そして一家が離散した話、悲惨な境遇の中で、苦心惨澹して研究を続けてきたこと、周恩来総理がどれほど敦煌芸術を重要視しているかということ・・・・・ 常書鴻を「地に叩きのめし、踏んづける」為にやってきた革命児たちは、足元を忍ばせて撤退した。 常書鴻と仲間たちは、自らの血と肉体で、日本の平山郁夫画伯が「東方民族文化の無上の宝」と賞する莫高窟を、守りぬいたのだ。
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莫高窟の象徴ともいえる九層楼が建つ。中には高さ35mの莫高窟最大の大仏があり、大仏殿ともよばれる。 大仏は初唐の弥勒仏で中国2番目の大きさを誇る。 現存石窟数は492窟。 内部は壁画、菩薩や如来、釈迦像。 壁画の総面積は4万5千u、塑像の数は2千尊をこえる。 莫高窟の起源は366年、前秦時代に遡る。 その後元代に至る約千年にわたり、堀続けられた。 現存する最古の窟は、北涼のもの。
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莫高窟は専属のガイドによって案内される。 日本人なら日本人だけを3,40名程度集めて日本語を話すガイドが案内する。 その時のガイドや混雑どによって、見学するコースが変わるため、始まってみないと、どの窟が見られるのか分からない。 莫高窟内部は写真、ビデオともすべて撮影不可。大きな手荷物の持ち込みも禁止され、入り口前の手荷物預かり所に預ける。
1900年、偶然第16窟の中に、新たな窟が見つかり(現17窟)、中から5万点にも及ぶ仏画、経典、古文書類が発見された。 窟を塞いだ壁の上に描かれた壁画が、宋代のものであることから、凡そ900年もの間、封印されていたことになる。 これが後に敦煌文書となり、莫高窟の歴史を研究する貴重な資料となる。1991年、世界文化遺産に指定された。
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敦煌市内の沙州市場の屋台の囲いに、こんな常書鴻を「莫高窟の守護神」と称えた額を見つけた。 常書鴻は1904年生まれ、中国フランス留学芸術家学会のエリートだった。 フランスのペリオが持ち帰った敦煌絵画に魅せられ、1936年10年住み慣れたフランスを離れ、妻子をつれて、戦火飛び散る故国へもどったのだ。 以来半世紀、一家離散や厳しい迫害など、苦杯を嘗め尽くした。 ケ小平は「常書鴻を北京に移動し、国家文物局顧問、全国政治協議会委員を命じ、部長(大臣)待遇」とした。 毎年、夏になると李承仙夫人とつれだって、莫高窟にきて過ごした。(敬称略)
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