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329窟 「夜半逾城」 初唐 釈尊が19歳の時、仏道の修行を志し、出家する為、夜半白馬に乗ったが、王宮の城壁を飛び越えることが出来なかった。 四天神が馬の四足を支え、釈尊を助けた。画中には乗虎天人が先導し、飛天が後に飛翔し、華やかな雰囲気をかもし出している。 敦煌壁画は撮影禁止なので、常嘉煌撮影写真を、特別にご配慮頂き、掲載することが出来ました。 また、409窟と220窟の下部の模写は、1957年当時、常書鴻が所長をしていた敦煌文物研究 所から出版された「敦煌壁画集」より転載させていただきました。 常書鴻の息子、常嘉煌の写真は長い年月によって、痛んだ実物の壁画を撮影したものですが、描かれた当時は、上記の模写のような色鮮やかなものであったと思われます。 二つの壁画を通して敦煌の歴史に思いをはせることができました。
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409窟 五代 西夏王供養像 頂の尖った 白氈の円筒型の高帽を戴き、円須細袖、団竜文の袍を着て、腰の草常の刀や独特の型をした嚢、結んだ縄など種々のものを佩び、白い氈靴を穿いている。 堂々たる体躯の国王の身分を持つに相応しい、装いである。
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57窟 初唐 説法図 特別窟(追加料金) これは唐代菩薩の中で一番素晴らしいといわれている。 淡いサーモンピンクの色調を呈する、面貌部分に眉、鼻筋、頬の輪郭などの、うっすらとした墨線が見え、瞼と頬などにさした紅の暈しが、艶やかさを感じさせる。
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254窟 北魏 薩埵那太子本生(特別窟) 本図は中国早期仏教芸術において、広く流行した題材である。 薩埵那太子が崖下に餓えた虎と7匹の小虎を見つける。死に瀕している虎を救うために、太子は自らの肉を虎に食わせる。 異時同図法を用いて、主題の全容を描こうとしている。 どの壁画にも言える事だが、壁画は大きくて、写真で表せるのは、残念ながら、限られたほんの一部である。
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257窟 北魏 九色鹿本生 西側の壁に、釈迦の前世の物語のひとつ、「九色鹿本生」が描かれている。 インダス川のほとりに棲む九色の鹿が、溺れる男を助けた。 この男は欲に溺れて、毛皮を欲しがる王に、鹿のいる場所を教えた。 鹿は射られる寸前に、一部始終を話し、その態度にうたれた王が、以後、鹿やその仲間を捕らえないと誓った。 鹿が釈迦の前世である。 この画は絵巻のように、両側から中心に展開し、敦煌早期説話図の、代表的な作品である。
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220窟 楽隊 初唐 特別窟 舞楽会は浄土図の構成に従い、左右対称的な表現を基本として、画面下部に横に長く配置される。 奏楽菩薩の一組は十三人で構成され、それぞれ、筝、簫、笛、方響、篳篥、阮咸、横笛、腰鼓、拍板、毛円鼓などを奏している。 唐代宮廷楽隊の盛況を反映している。 楽隊上部は常嘉煌撮影写真より、下部は敦煌研究院編の模写出版物をスキャンしたもの。対比してみるのも面白いのでは。 この220窟には、胡旋舞や化生童子など見るべきものが多い。 この窟は敦煌の豪族が642年に建造した。70年代敦煌研究院が、西夏時代に修復した壁画を写すと、925年のすばらしい「新様文殊」が現れた。
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