6. アレキサンドリア   

 
   
 

 


アレキサンダー大王の像

 アレキサンドリアは、カイロに次ぐエジプト第2の都市。紀元前4世紀、アレキサンダー大王が建設した街。

 アレキサンダー大王は、紀元前356年、キリシャ北方のマケドニア王国の、第1王子として生まれ、幼い頃からアリストテレスなどによる、特別教育をうけた。

 大王は、紀元前332年、ペルシャ人の圧制を排除して、エジプトの統治者となった。エジプトの解放者となった、アレキサンダーは、エジプトの神殿に詣でて、敬神の念を示した。

 アレキサンダー大王の死後、エジプトの統治者となったギリシャ人の王朝、プトレマイオス朝時代には、首都が、ここに置かれた。

 やがて、アレキサンドリアは、地中海世界の文化中心地として、全盛期を迎えるのである。

 プトレマイオス王朝の最後の君主は、有名なクレオパトラ7世だ。アレキサンドリアは、「クレオパトラがいた街」でもある。

 クレオパトラの健闘むなしく、アレキサンドリアは、ローマに征服され、ビザンツ時代は、コンスタンティノーブルや、ローマに次ぐキリスト教会の、第3の主教座が置かれ、繁栄したあと、7世紀には、アラブの侵入を受ける。

  クレオパトラの死と共に、3000年の創造母体としての、古代エジプト文明もまた死んだ。

.

 

 


ミイラの足(グレコローマン博物館)

 
ミイラの足(補足説明)
 

 グレコローマン博物館は、プトレマイオス朝の紀元前3世紀から、アラブがエジプトに入ってくる紀元後、7世紀に至る、グレコローマン時代、及びビザンツ時代の遺物7万点を収めている。 殆どがデルタと中エジプトの発掘物。

 古代エジプト文明を、特徴づけているものの一つに、死者をミイラにして葬るという風習がある。

 いくつかの古代文明でも、死者をミイラにして埋葬するということはあった。しかし、エジプトほどミイラ製作技術が、研究され、発達したところはなかった。

 ミイラの製作が実際に行われ始めたのは、古王国時代第4王朝、技術的に完成したのは、新王国時代である。

 手順をおって処理された遺体は、形を整えるために、樹脂を染み込ませた布などが、体内に詰められ、亜麻布の包帯が、丁寧に巻かれる(上部写真のミイラの足のように)。ここまで、約70日間ミイラ製造工程は終了する。

 ミイラが完成すると、いよいよ葬儀がはじまる。ミイラは人型の棺(次頁写真)に納められ、更に厨子に安置されて、墓地へ向う。

 墓地に着くと「口開けの儀式」を行い、ミイラは家具調度品や食料が、すっかり整っている墓に納められる。

 

 


ミイラの棺
 

  エジプト文化は、現代の我々には、信じられないほど、死と死の世界に、真剣に取り組んでいたようだ。

 エジプト人にとって死後の世界は、生前の世界と全く変わらないと考えていた。

 死んだ人間は、殆どの場合、太陽が1日の旅を終えて、あの世に入る西方に葬られた。

 人間は、1つ目は体、2つ目はパー(体を動かす生命力)、3つ目はカー(人格)、この3つの部分から、成り立っていると考えた。

 人間が死ぬと、パーもカーも体を抜け出して、飛び回ることが出来る。しかし、夜になると、体の中に戻って、飲食しないことには「死んで」しまうことになる。

 死後の死は、全てを失うものであるらしく、エジプト人は全力をあげて、それを防ごうとした。ここからミイラ作りの技術が開発されたという。

 ミイラを保護する為に、美しく細工した棺に納め、更に石棺に入れる。財力のある者ほど、棺を重ねる数が増す(ツタンカーメンのように)。

 古代エジプト人たちは、来世の楽園を信じて、生前から準備怠り無く、自己の生命の永遠を願って、生活していたのである。

 写真は、グレコローマン博物館に展示されたミイラの棺である。
  .

 


エジプトナイル川の女神の像
 

 ナイルは、灌漑と肥料問題を解決したばかりか、格好の交通手段を提供した。

 古代エジプトは、北の地中海から南のアスワンまで、1200kmにも及ぶ細長い国だ。

 この細長い土地に、中央政権が生まれ、かつ存続できたのには、ナイルという交通手段を除いては、考えられない。

 とくに紀元前17世紀頃まで、車を持たなかったエジプト人にとって、ナイルの水利なしには、中央政権どころか、毎日の生活にもさしつかえたことだろう。

 ましてやピラミッドに代表される、大建築の石材運びなどは、及びもつかなかったはずだ。

 洪水なしには、農業がなく、農業なしには、余剰人口がなく、余剰人口がなければ、文化もない。

 したがって、エジプト人は、洪水をハアピィと呼んで、人格化した。豊穣の神らしく、女性の乳房を持った、髭の神だが、8人の子供は、8つのナイルの支流をあらわしている。(グレコローマン博物館所蔵)


ポンペイの柱

 ローマ皇帝ディオクレティアヌス帝が建てた、図書館の柱の1本とされるポンペイの柱は、高さ約27m、アスワンの赤色花崗岩で出来ている。

 かつては、この柱が400本はあっただろうと言われている。

  柱の脇には、スフィンクスの像があり、この柱は神への捧げ物として造られたとか?

 

 


アレキサンドリアの海岸通り

 地中海に沿って広がる、アレキサンドリアの街。

 海岸通りを西に向うと、カーブした海岸線の先にカイト・ベイ要塞が見える。

 首都がカイロに移って以降、19世紀の近代化が始まる迄、アレキサンドリアは、廃墟の多い、さびれた港町だったが、小さいがヨーロッパの雰囲気を持つ、歴史の街として、今では訪れる人も多い。

 

 

 


カイ・トベイ要塞

 要塞は、もともと古代世界の七不思議のひとつと言われた、ファロス灯台の跡に、その建材(石灰岩)を用いて、600年前に建てられた。

 3層構造の堅固な要塞。内部は海軍博物館になっている。

 城壁からは地中海とアレキサンドリア市街の様子が一望出来る。

 ファロス灯台は、アレキサンダー大王の案に基づくといわれ、プトレマイオス2世により、紀元前3世紀に建設。高さ120m。56km先からも光が見えたと言う。14世紀の大地震で崩壊した。


アレキサンドリア図書館

 プトレマイオス1世が開いた、アレキサンドリア図書館は、ヘレニズム時代に、世界最大の図書館として、名をはせた。

 幾何学の父として名高い、ユークリッドが通い、文献学者アリスタルコスが、館長を務めた伝説の図書館だ。

 この図書館を復活させようと、1990年より、エジプト政府とユネスコが各国に援助を募り、紆余曲折を経て、2002年10月16日に開館した。

 入り口を入って右側が図書館、左側が国際会議場、奥に見える球形のプラネタリュウムの、3つから成り立っている。

 図書館は地上地下合わせて11階建て、総床面積85000u(東京ドーム1,8個分)、直径160m、高さ35mの円筒を斜めに切った形は、エジプトの太陽をイメージしている。

 内部の書架は階段状で、太陽光が降り注ぐ、開放感溢れる造り。コンピューター端末の数も多い。

 開館当初の蔵書は、25万冊。書棚はまだ空きがある。

 館内には、アレキサンドリアの古地図、20世紀初頭の写真、絵画やイスラムの古典名作が、展示されている。

 図書館の地下は、考古学博物館になっている。

 

ホームへ

旅へ

トップへ