スチャバ モルドヴァ公国初代の大公ペトゥル1世がスチャバを都と定めた。
1388年、ゴシック様式の城塞を築いた。 1476年オスマン・トルコの攻撃にも陥落しなかった。 聖ゲオルゲ・ノウ修道院 いくつかの建物がある敷地は広く、平日でも礼拝に訪れる人の姿が絶えない。 ボクダン3世がセルビアとハンガリー軍を退けた記念にと1521年建立。 内壁のフレスコは残されたが、外壁部は教会にふさわしくないとの理由で100年前に白く塗り潰されてしまった。
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2.スチャバ
ルーマニアの国旗 モルドヴァ・ブコヴィナ地方のスチャバがモルドヴァ公国の首都に定められたのは1388年。 公国の文化・行政の中心地て、1565年にヤシに遷都されるまでに大きく発展した古都。 ワラキア公国と並んで、現在のルーマニアの母体となったモルドヴァ公国。 15世紀には、拡張するオスマン・トルコを何度も撃退したシュテファン大公の治世下、中世ルーマニア文化が発展した。 大公は各地に教会を建て、ルーマニア正教の庇護と民衆の啓蒙に努めた。 スチャバを中心とした北モルドヴァ一帯をブコヴィナ地方と呼んでいる。 この地に、外壁の隅々にフレスコが描かれた「五つの修道院」が残る。 勿論世界遺産にも登録されたルーマニア観光のハイライトだ。
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1.ヴォロネッツ修道院 1488年、シュテファン大公の命で建立。 東面に「聖人伝」、南面には「エッサイの樹」、そして西面には「最後の審判」が描かれている。 ここの「最後の審判」はこれを見るだけにブコヴィナを訪れる価値があるとまでいわれる傑作だ。 通常、教会の入り口は全て西側にある。東方エレサレムに向かって祭室があり、十字架が安置されるので、入り口は西側に向く構造になっている。 ヴォロネッツの聖堂は「最後の審判」を完全に描ききるため入り口は西方にはない。 「最後の審判」とは生きている人々は勿論、すべての死者も復活して、生前の行いを神に裁かれる、人類最後の日。神に選ばれた者は天国の門へ、罪業深いものや異教徒は地獄へ。 天使がかなでる楽器は、ルーマニアのプチューンで、地獄に落ちているのはここでもトルコ人である。
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他に比べると規模が小さい。1503年ルカ・アルボーレが建立。 壁画は西壁によく残っている。「聖人たちの生活」と「創世記」などが描かれている。 今日ルーマニアで信仰されている正教は、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)から伝えられたもの。 これらフレスコ画もビザンチン帝国末期のパレオロゴス朝様式の流れをくんでおり、その為ブコヴィナ地方は「ビザンチン亡き後のビザンチン美術の宝庫」とさえ呼ばれている。 . |
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1586年に完成。「五つの修道院」のなかでも最大の大きさと敷地を持つ聖堂で外壁フレスコ画の保存状態は最もいいが、世界遺産には登録されていない。 北面外壁いっぱいに描かれた「天国の梯子」は天国に至る32段の梯子を境に右が天国、左が地獄で、悪魔の誘惑と戦いながら梯子段を上る修道士描かれている。 異端者の顔はすべてトルコ人の顔をしており、当時の政治的状況がうかがえる。 東面には「聖人伝」。聖人や天使たちが壁を埋め尽くしている。 南面は「エッサイの樹」樹として表されているのは、ダビデの父エッサイにはじまるキリストの系譜である。 西壁は「最後の審判」。
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4.モルドヴィツェ修道院 1532年 シュテファンの息子、ペトウル・ラレシュ公の命により建立。 外壁のフレスコ画のモチーフはどの聖堂でも共通。ここも東面は聖母子を中心とした聖人、天使たちが並んで描かれている。 付属の博物館には、ロシア皇帝エカテリーナ2世から贈られた聖書が展示されていた。 独特なのは聖堂南面の一角に戦闘場面が描かれている。 626年ペルシャ軍襲来がモチーフでキリスト教徒たちを守る砦はビザンチン帝国の都コンスタンチンノーブル、海を越えて攻めるのがペルシャ軍。 しかし兵士の顔や装備はトルコ軍のそれで、当時のオスマン・トルコに対する脅威がこれを描かせたといわれている。
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5.フモール修道院 1530年にモルドヴァ公国のブブイオグ大臣夫妻が寄進した。 内外のフレスコ画は宮廷画家トーマ作。修道院群の中で、画家の名前がわかっているのはここだけである。 壁画は南面を除いて剥げ落ちていて、保存状態が悪く判別不能。 南面のモチーフは、626年ペルシャ軍襲来から町を守護した聖母マリアに捧げた24の詩の場面。
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