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エジプト・アラブ共和国の国土は日本の約2,7倍の面積を持ち、首都カイロは、人口の約1/6の1200万人ともいわれている。 騒音がおさまる朝早く、ホテルの窓からナイルの流れを眺めた。川は耕作に都合のいい黒土を下流に運び、出来上がったデルタにあるのが、カイロである。カイロの年間降水量は25mmで、川の水は大切な資源だ。 エジプトの国土の97%が砂漠地帯だ。ナイル川流域を境に、西側を西方砂漠(サハラ砂漠の最東部で、リビア砂漠ともいう)、東側を東方砂漠(アラビア砂漠)と呼んでいる。紅海を隔てた、シナイ半島は、全土に亘って、シナイ砂漠だ。砂漠と言えども地域によって、全く違う。小石がゴロゴロした「礫砂漠」岩山が連なる「岩砂漠」などが多い。 昔から、ナイル流域に人が住み、肥沃なデルタのカイロを中心に、権力争奪のドラマが展開した。 古代エジプト文明が、約3000年に及ぶ王朝史に終わりを告げたのは、クレオパトラの死によって、ローマ帝国の支配下に置かれた、紀元前30年のことである。 王朝の時代に始まり、古代帝国、アラブ、十字軍の時代を経て、オスマン朝、フランス、イギリスに支配された。 . |
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ハーン・アル・ハリーリの歴史は長く、14世紀末には市が出来たらしい。19世紀初頭には、12の大バサールが、一つになったと言われているが、今残っているのはここだけ。 大半が土産物屋で、金銀銅などの金属細工や食器、宝石類、革細工、工芸品、アラバスター製品、水パイプなどが売られている。 土産品ではないが、アラバスター(雪花石膏)といえば、有名なスフィンクスが、メンフィス(古王国時代の首都)にある。(トップページのフレームに写真使用) 1912年に発見され、ギザのものより、痛みが少なく、端正な顔立ちをしている。 大ざるにナンを入れて、売り歩く男などで賑合う通りを、小道に入り込むと、中はくねくねと曲がりながら、いくつもに分かれていて、まさに迷路。 雑多な喧騒に疲れ、広場のカフェでお茶にしました。
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別名アラバスター(雪花石膏)の、モスクとも呼ばれている。オスマン朝は、かつて強大な勢力を誇っていたが、その支配下にあったアラブ諸国の中でも、いち早く近代化の基礎を築いたのが、モハメット・アリである。 イスタンブールのモスクを真似て、いくつもの巨大なドームと、鉛筆型の2本のミナレットを持ち、1857年に完成した。内装も見事で、大きなシャンデリア(フランスより贈呈)、沢山のランプ、それを取り巻くステンドグラスと豪華である。 入り口の右側はモハメット・アリ廟。 中庭北端には、ルクソール神殿のオベリスクを贈ったお返しに、ルイ・フィリップフランス王から貰った、透かし彫りの銅製の時計塔がある。今では時計は動いていないが、オベリスクはパリのコンコルド広場で、観光客を楽しませている。
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カイロにある、エジプト考古学博物館は、世界的に有名で、古王国時代からの、エジプト各地で発見された、貴重な品々が、所狭しと展示されている。 1階・・・細かいレリーフの彫られた石棺、アクナトンの宮殿の床、アモン・ラーと女神の像、アクナトンの長い顔の像及び金の棺、ハトシェプストのスフィンクス、セクメット神の像、クフ王の5cm位の小さな像、カフラー王の玄武岩の像(エジプト一美しいと評判)、村長の像、4300年前のメンカウラー王の像などを展示している。 2階・・・3700年前の矢じり、農器具、ミイラの木棺、ツタンカーメンコーナー、ラムセス2世を始めとする、歴代のファラオや王妃のミイラが眠るミイラ室等。 ことにラムセス2世のミイラには、驚きました。このファラオは67年の長きに亘り統治し、年齢も88歳近くに達していた。顔はどこかアジア人的である。手足はヘンナ(植物染料)で染められ、その先にはしっかりと爪が生えている。皮膚は、それまでは暗褐色が使われていたが、ミイラ作りの際に、黄色に着色されていた。また、頭には髪の毛が生えているではありませんか。撮影禁止なので、お見せ出来ないのがとても残念です。
この像は第4王朝初期のもので、メイドームにある、王子のマスタバ墳から発見された。妻のネフェルトは、頭帯と首飾りをつけ、麻の長衣をまとい、かつらをつけている。 背後には、絵文字から発展してきた、象徴記号のヒエログリフが記されている。 口ひげを生やしたラーホテブは、おそらくはスネフェル王の息子であり、最高位の官職についていたと考えられる。 短い腰布だけを、身にまとっているのは、古代エジプトの慣習である。(石灰岩、高さ約120cm)
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横、やや上から撮った第2の棺。棺の中央から下がっている帯には、王家のカルトゥーシュと、ヒエログリフ(絵文字から発展して出来た象形文字)が、記されている。 ツタンカーメンの展示室は、特別に設けられていて、1922年、王家の谷で発見された、純金製のマスクをはじめ、豊かな副葬品でうめられ、人気を博している。 ツタンカトン(後のツタンカーメン)は、わずか7歳で王位についた。文官のアヤ、武官のハレムヘブの2人が実権を握った。 ツタンカトンはアトン神からアモン神に乗り換えて、ツタンカーメンとなり、アマルナからメンフィスに都を移した。 短い生涯を終えたツタンカーメンには、殆どなんの事跡もないが、現在ではもっとも有名なファラオになっている。 新王国時代即ち第18、第19、第20の王朝の王(トトメス1世以降の数は31人)は、王家の谷に墓を造った。 ツタンカーメンの墓を、唯一の例外として、他の王の墓は、ことごとく盗掘されてしまった。 未盗掘で発見された墓は、絢爛たる副葬品で埋まっていた。無名の王でさえ、こんなに沢山の宝を、まして権力のあったファラオ達の絶大な富は、如何ばかりだったのだろうか。 黄金のマスクをつけたミイラは、黄金の人型棺(3つ)、棺台、石棺、4つの厨子に入れられていた。これと数え切れぬ程の副葬品を、目の当たりにした時の驚愕と、紀元前14世紀の大エジプト帝国の、燦然たる栄光に畏怖の念さえ覚えた。 この壁紙は、ツタンカーメンの石棺が納められていた、厨子の模様(金箔)です。
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第4王朝 ギザ 第3のピラミッドを建造したメンカウラー王と、その両側に立つハトホル女神と、州の守護女神の像である。 州の守護女神の頭上には、州名のディアポリス・ミクラをあらわす記号が見られる。この石像の高さは、約98cmである。 王は、上エジプトの王冠を戴いており、ハトホル神の頭上には、この女神のしるしである日輪と、牛の角が見られる。
アメンホテブ4世(後のアクナトン)時代、テル・エル・アマルナの王宮を中心に、アマルナ芸術と呼ばれる、新しい芸術が発展した。 この芸術様式は、それまでのエジプト芸術の傾向と、あらゆる点で、相反するものであった。 王宮の床には絵が描かれ、彩色が施されていたが、今では、その一部しか残っていない。アクナトン自身の肖像を、つくらせる時も写実性を重視した。 太陽神アトンはテーベの神々、アモン神、ムート女神、想像上の神などにとってかわった。 アクナトンの「太陽賛歌」は霊感を受けた一大文学であり、太陽の息吹に対する賛美、古代エジプト千年の歴史において、匹敵するものの無いすぐれたものである。 このアクナトンの詩と「旧約聖書」の104の詩篇が酷似していること、また、「出エジプト記」モーセは、ヘブル人の子として生まれ、篭にいれて、川に流され、ファラオの娘に拾われ、育てられ、王宮に入った。ファラオの後継者となるように、教育された。 アクナトンはモーセより約100年前の人、アクナトンの一神教は、特別な形で生き残った。モーセの一神教(ユダヤ教)に結びついているのではと、考えることも出来るという。 アクナトンは、妻ネフェルティティとの間に、6人の娘に恵まれたが、息子はいなかった。次のファラオとなるツタンカーメンは第2夫人キヤとの間に生まれた。
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