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ニューグレンジは5000年以上も前に造られた古代人の墓。 ユネスコ世界遺産にも登録されている、アイルランドが誇る観光地。 時代的には、新石器以前のものとされる。単純な狩猟民族ではなく、古墳の構造から 天文学の知識もあり、信仰心も厚く、高度の文化を持っていたと、考えられる。 . |
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ニューグレンジの古墳には、墓の中心まで1本の狭い通路がある。 通路と墓室は巨大な石柱で組み立てられ、墓全体の石の総重量は、20万トンに達する。墓室の天井は巧みに組み合わされた石板で、現在に至るまで、一滴の雨水も浸入していない程、精巧に造られている。 1年で最も日の短い冬至に、陽光が真っ直ぐに墓室に届く。 墓の外壁には白い石英石が積まれているが、この種の石は周辺にはなく、遠く80キロも離れた、ウィックロウあたりから運ばれたという。
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ニューグレンジ周辺の石には、渦巻き状や菱形の模様が刻み込まれているが、目につかないところにもあるので、装飾ではなく宗教的な意味があるとされている。 後のケルトの人々が造る十字架などにも、同様の模様があることから、大きな影響を与えたようだ。 この時代もケルトの時代も文字がなかったので、非常に貴重な遺物。 . |
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美しい丘にかすかに遺構を残すタラは、聖地としてケルトの人々の心に現在も生き続けている。 紀元前200年頃からアイルランドに移入して来たケルト人が、瞬く間に先住民族を駆逐し、大小の国を形成した。 ケルト人は氏族集団の集合体で、部族連合というピラミット型を形成していた。 その一番有力な首長を「ハイキング」と呼んだ。 「ハイキング」は絶対的権者ではなく、象徴的な王で、タラの丘に居を構え、祝祭・裁判・市などを主催した。 人質の山はケルトのものではなく、新石器時代の古墳。ケルトの人は、丘の上には妖精がすむと、近寄らなかった。 やがて、キリスト教が入り込むようになってから衰退したが、聖地としてケルトの人々の心に現在も生き続けている。移民で世界各地に散ったアイルランド人にとって、「タラに帰る」という言葉は「アイリッシュとしての心・望郷」という意味があるという。
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ドロヘダは、ニューグレンジをはじめとするケルト以前とケルトの遺跡が集中する。 ヴァイキングやノルマンの襲撃を受け、さまざまな支配者に翻弄された800年の歴史を伝える城壁、城門、砦が各所に残され、城塞都市の面影が色濃く感じられる。 聖ローレンス門は13世紀に造られ、左右に円筒の物見櫓がある。自動車が門を行き来する現在、その前にポツンとたたずむグリーン色の郵便ポストがなんとも愛らしい。 聖ピーターカトリック教会の現在の建物は、1748年に再建された。1691年に死んだ聖オリバー司教の生首がある。また珍しい青い色の見事なパイプオルガンが、据えられていた。 . |
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モナスターボイスは、聖パトリックの弟子、聖ビュートが6世紀に建てた教会の跡。 先端が破壊された尖塔ラウンドタワーの周囲には、多くの墓標が林立し、一際高いハイクロスがある。これは10世紀のもので、アイルランドで最も有名な十字架のひとつ。(922年まで修道院長だったモイルダのクロスがある) このハイクロスには前面に見事なレリーフが施されている。日輪を配した十字架の中央に、最後の審判を示す聖人を配し、柱状の部分には、キリスト降誕時に贈り物を持ってきた東方の三博士、民を率いるモーセ、禁断の果実を手にしたイブやアダムなど聖書の物語が描かれている。 これは単なる装飾ではなく、文字がまだ一部の人しか読めなかった時代に、教育のために用いられていたという。
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