4.ロンドンデリー   

 
   
 

 


ロンドンデリーの城壁を望む
 

 デリーは北アイルランド第2の都市。人口10万人。住民の3分の2は、カトリック教徒。540年に聖コロンド(コルムキル)が、修道院を造ったのがきっかけ。

 当時はフォイル川とボグサイト地区あたりに川が流れていた。現在の中心地あたりは、砂州のような、島だったようだ。

 デリーとはゲール語で「樫の木」という意味。樫の木の葉が歩道に描かれ、街のシンボルになっている。

 北海に面している為、ヴァイキングやノルマンの襲撃を受けたが、重要な海港として栄え、イキリスも植民地としての守りを固め、16世紀には要塞も建設された。

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フェリーキー門より城壁へ
 

 城壁には、7つの門がある。中でもフェリーキー門、ビショップ門、ブッチャー門、シップキー門が町ののメインゲートだ。

 カトリック教徒が多く住むボグ・サイト(湿地帯)地区を城壁の上から望む。周囲1,5km。

 ロンドンデリーの城壁は、1613〜18年にプロテスタント入植者たちによって造られ、合計3度の包囲戦を耐えてきた。

 城壁の外、北西のボグサイド地域が北アイルランド紛争の舞台になった。 

 

 


聖コラムズ大聖堂
 

 1633年宗教改革後ヨーロッパで、最初に造られたプロテスタント教会。

 1688年のジェイムス2世とウイリアム3世の英王位をかけた争いの渦中で、ウイリアム側につく。

 城壁の門を閉じてジェイムス2世の包囲を105日間耐えた町は、ウイリアム3世の最終的な勝利に貢献した。

 教会のステンドグラスは包囲の様子を描いている。また、包囲戦のときに使われた門の鍵や包囲にちなんだものが数多く見られる。                             

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ギルドホール
 

 城壁のすぐ外にあるネオ・ゴシック様式の建物で、市役所として使われている。

 中のステンドグラスは、町の歴史をえがいていて、大変美しい。

 1908年の火事と1972年の爆弾テロによって、過去2回被害を受けたが、その都度修復されてきた。

 ギルドホールの前にある観光案内のパネルは、造られた当時と、現在のギルドホールが見比べられるようになっている。

 ダニーボーイが歌われていたところ。

 

 


アイルランドの古民家

 アイルランドの古民家とでも言おうか、こうした形式の可愛い家が何軒か復元された広場があった。

 アイルランドは第2次世界大戦で、完全に中立を守り、1949年に正式にイギリス連邦から脱退して、アイルランド共和国が誕生した。

 北アイルランド問題について

 一方、イギリス領に残った北アイルランドでは、プロテスタントが多数派を占めた。

 1968年少数派のカトリック住民による公民権運動が活発になるが、このことで、両者の衝突が増加した。

 イギリスは治安維持の為、軍を北アイルランドに派遣する。北アイルランドの情勢は、混迷を極める。

 IRAをはじめとするカトリックの過激派は、北アイルランドのみならず、ロンドンなどにもテロの対象を広げ、プロテスタントの過激派もテロで応酬するという最悪の状態が続く。

 1998年には和平が合意され、恒久的和平に向け、現在は確実にその歩みを続けている。

 

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北アイルランドー美しい家並み

 エバグレードホテルに泊まった明くる朝、近隣に散歩に出るとこんな美しい家並みにであった。

 宗教改革とアルスター入植について

 英王ヘンリー8世は、離婚問題に端を発して、カトリックをやめて、英国国教会を設立した。

 またアイルランド王たるを宣言し、アイルランドをダブリンから支配する体制を整える。

 ヘンリー8世の娘エリザベス1世は、ヘンリーの政策を受け継ぎ、イギリスに不満をもつ貴族の反乱をキンセールの戦いで撃破した。

 ヒュー・オニールなどアイルランドの首長たちは、ヨーロッパの他の国へと亡命する。

 この一連の反乱で最も頑強に抵抗したのが、アルスター州だった為、エリザベスは、主にスコットランドから、プロテスタントを入植させ、二度と反乱を起こさせないようにした。

 これが現在まで続く、北アイルランド問題の発端だ。 

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