5.カッパドキア   

 
   
 

 


カッパドキア
 

 カッパドキアはアナトリア高原(標高1200m)の中心に広がる大奇岩地帯。

 なだらかな岩肌のグラデーションが広がるかと思えば、ごつごつとした奇岩群がある。ニョッキリと突き上げるキノコのような岩や、壁紙にしたラクダのようなユニークな岩もある。

 その世にも不思議な地形は、数百万年前に起きた、エルジェス山とハサン山の大噴火によって形成された。

 膨大な量の火山灰が広い大地を覆い、長い年月の間に冷えて固まり、やがてその土地でも人々の生活が始まる。

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カッパドキア
 

 遺跡の発見により、9000年から10000年前の新石器時代の村の跡が確認された。

 古代アナトリアの文化を示す、数々の出土品も発掘された。

 この地方の住民は、やがて北方から移動してきたヒッタイトに融合吸収された。

 強大な帝国を築いた、ヒッタイトの歴史は、ハットゥシャを都として紀元前1200年まで続いた。

 紀元前1200年頃に起こった異民族のアナトリア侵入は、ヒッタイト帝国を崩壊させた。                    

 ヒッタイト帝国滅亡の後、アナトリアには、いくつかの君候国が形成されては、滅んでいった。

 

 


ギョレメ谷の洞窟
  

 「尖った砦」という意味の巨大な一枚岩の城塞が中心になっている。 

 パレスチナでキリスト教をおこしたイエスは、ローマ帝国により、十字架にかけられ処刑された。              

 イエスの弟子たちは、パレスチナから逃れ、各地にその教えを広めていった。

 洞窟教会堂はギョレメ谷だけで30以上あり、よく残っている部分は、ギョレメ野外博物館になっている。         

 ギョレメ屋外博物館には偶像禁止時代の絵も残されており、所々に破壊された跡が目立つ。

 ドーム天井にはイエス、壁には、洗礼、最後の晩餐、エルサレムへ、はりつけ、ユダの裏切り、使徒が描かれている。

 教会本来の名は分からないが、描かれたイエスの手が丸く、りんごに似ているところから、「りんごの教会」と呼ばれている教会もあった。

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カイマルクルの地下都市入り口
 

 717年、イスラム教徒がアナトリアの奥まで攻め込んだ。

 カッパドキアの洞窟はキリスト教徒にとって、イスラム軍からの避難場所となった。

 その後セルジュク時代、オスマントルコ時代には、信仰が迫害されず、キリスト教も自由で、避難場所としての意味も薄れていった。

岩窟住居、といってもここは蟻の巣のように、地下へと延びる地下都市。ここは紀元前400年からという。

 背をまるめて、なんとか入り口を過ぎると、迷路に次ぐ迷路が張り巡らされ、光の入らぬ地下では方向性も失う。

 別棟には修行僧の生活を表した人形が展示されている。

 

 


カイマクルの地下都市内部

 内部には、まず通気孔がある。垂直に掘られた細い穴からは、絶えず新鮮な空気が入る。

 通気孔は各階に通じ、礼拝堂、教壇のある学校の教室、寝室、厨房、食糧庫に井戸などがある。

 出入り口には、大きな丸い石が置かれており、外敵が侵入した時に、出入り口をふさいだ。

 台所には、排煙口や下水道があり、長期間の生活ぶりが伺われる。

 電球もつくが、かがんで通らなければならない場所もおおい。

 地下8階まであるが、地下5階まで見学可能だ。

 トルコ共和国が成立すると、1923年のローザンヌ条約に基づき、アナトリアに住んでいた、キリスト教徒の多くはギリシャに去った。

 

 


キャラバンサライ

 中央アナトリアが貿易路として栄えた時代、カッパドキアにも隊商の宿泊所として、キャラバンサライが建てられた。                      

 アナトリアには40を超える隊商宿があったとされる。

 アクサライの西のこのキャラバンサライは、当時の雰囲気を伝える建物だ。

 入り口を入ると中庭があり、中央に男性が2階で、礼拝を行うための礼拝堂がある。周囲を取り囲む回廊式の建物には、食堂やハマム、宿泊場所、ラクダをつなぐ場所などが設けられている。

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